◆秋田県 3山
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5・1 毛馬内富士(けまないふじ) 茂谷山 362m 鹿角(かづの)市十和田瀬田 <鉄道:花輪線十和田南駅 道路:東北自動車道十和田IC、 国道282号 毛馬内> |
伝説によると、十和田湖を追われた八郎太郎が鹿角盆地を湖にして棲もうとし、茂谷山を崩して川をせきとめようとしました。
今、道筋になっている凹みは、その時縄をかけた跡だといわれています。
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明田富士(みょうでんふじ) 35m 秋田市東通明田(みょうでん) (*地図上不明:磯前神社、「楢山明田近隣公園」内) |
秋田県の南南東約1070メートルほどに位置する太平川右岸の標高三十五メートルの小高い山です。『秋田名蹟考』に「高貴館、富士山にあり、富士太郎の居館になりと云、富士権現を祀る」とあり、佐竹氏入部以前、土豪富士太郎の居館があったと伝えられます。明田の富士山(ふじやま)は、金照寺山と太平川(富士山の南東)間に立っている小山で、東と北には大きな沼(長沼)があり、西は堀で守られていて敵を防ぐには便利な山でした。、鎌倉時代には土豪富士六郎の居館があったといわれています。
山やその周辺には富士権現、薬師堂、摩利支天堂があるほか磯前(いそざき)神社があります。
同社は、茨城県大洗海岸にもある漁労の神で、佐竹氏が秋田入りしてから大洗様にちなんで建てたもので、かつては新屋の漁民たちが晩春の大羽イワシ漁の始まる前に大洗祈願をし、さらに漁期が終わると包丁の奉納式を行ったといわれています。
幕末になって北のふもとには、福原彦太夫鉄砲組の射撃場が建ち、三匁銃の練習撃ちが行われていました。また、明田付近は六郡邑記によると江戸時代初期の正保元年(一六四四)、楢山村の支郷妙田村(明田)は戸数十六軒、富士山村(同)は五軒とあり、中世のころ富士山を香歌館と呼んでいたのは、その館主が香歌という豪族あるいは富士六郎ともいわれています。
明田の地名は、本当はあて字で正しく書くと「名田」であり、鎌倉時代には宗定という持主のときは「宗定名田」といい、綱俊が持主のときは「綱俊名田」などといって、田の所有者の名前からきたものです。
明田の馬頭観音前には、軍学者小野寺以斎(一七九七~一八五九)碑があるほか、昭和三年四月矢留中学が創立され、四年に将軍野中学と改称、将軍野に移りまもなく廃校になりました。
そして、この明田山はその後、藩制初期から、なら山築地(やまつきじ)の埋立てや耕地の客土用に「土取場」として削り取られて、昔の丘の1/4位になってしまいました。
また富士山西側道路脇の「明田墓地」は江戸時代からの古い墓地で、秋田人名録に名が載っている武芸者や文人の墓が残っています。
「広報あきたS50.6.10」「秋田市大辞典」より編集
(協力:秋田市役所秋田市環境部 環境企画課 神田様
秋田市商工部観光課 山田様)
2008年7月28日掲載
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5・3 前田富士(まえだふじ) 七角山(ななかどやま) 275m 北秋田市小又 (*地図上不明:秋田内陸縦貫鉄道阿仁前田駅北東の山) <鉄道:秋田内陸縦貫鉄道阿仁前田駅 道路:国道105号 阿仁前田> |
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